2012年05月18日
今日は何の日? ~5月18日~
4年前の今日、2008年5月18日は、国領で発見された不発弾(1トン爆弾)が処理された日です。
太平洋戦争中(1945年4月)に、アメリカ軍の爆撃機「B29」が、現在の武蔵野市にあった「中島飛行機」を空襲するために飛来し、国領に墜落しました。
この不発弾は・・・
その時、「B29」に搭載していたものと考えられています。
当時、「中島飛行機」などの軍需工場を空襲するために、アメリカ軍は、250キロ爆弾や1トン爆弾を使用していました。
コンクリート製の工場の屋根を破壊するために、1トン爆弾という威力の大きい爆弾を使ったようです。
1トン爆弾の威力は相当なもので、被害は500mの範囲にも及ぶと言われています。
不発弾処理の当日は、すぐ近くを通る京王線や甲州街道を一時通行止めにし、現場から半径500mの住民約1万6千人が避難しました。
避難地域内にある多摩川病院の入院患者は、未明から救急車で他の病院へ移されました。
全ての住民が避難したことを確認した後、自衛隊により、不発弾から信管(爆弾を爆発させるもの)が抜き取られ、爆発しない状態にして、クレーンで撤去されました。
太平洋戦争から63年目に、突如眠りから覚めた不発弾という遺物は、私たちに、過去この調布の街も戦争と深く関わっていたことを想い起こさせます。
調布市から不発弾処理に関する資料が出ています。
調布市立図書館で見ることができます。
・2008年5月18日避難その時,あなたは…-調布市国領町不発弾処理避難体験談
・調布市不発弾処理の記録 平成20年5月18日~1万6000人が一斉避難その舞台裏~
京王線の線路近くの現場(写真提供:調布市)

不発弾(写真提供:調布市)

(と)
太平洋戦争中(1945年4月)に、アメリカ軍の爆撃機「B29」が、現在の武蔵野市にあった「中島飛行機」を空襲するために飛来し、国領に墜落しました。
この不発弾は・・・
その時、「B29」に搭載していたものと考えられています。
当時、「中島飛行機」などの軍需工場を空襲するために、アメリカ軍は、250キロ爆弾や1トン爆弾を使用していました。
コンクリート製の工場の屋根を破壊するために、1トン爆弾という威力の大きい爆弾を使ったようです。
1トン爆弾の威力は相当なもので、被害は500mの範囲にも及ぶと言われています。
不発弾処理の当日は、すぐ近くを通る京王線や甲州街道を一時通行止めにし、現場から半径500mの住民約1万6千人が避難しました。
避難地域内にある多摩川病院の入院患者は、未明から救急車で他の病院へ移されました。
全ての住民が避難したことを確認した後、自衛隊により、不発弾から信管(爆弾を爆発させるもの)が抜き取られ、爆発しない状態にして、クレーンで撤去されました。
太平洋戦争から63年目に、突如眠りから覚めた不発弾という遺物は、私たちに、過去この調布の街も戦争と深く関わっていたことを想い起こさせます。
調布市から不発弾処理に関する資料が出ています。
調布市立図書館で見ることができます。
・2008年5月18日避難その時,あなたは…-調布市国領町不発弾処理避難体験談
・調布市不発弾処理の記録 平成20年5月18日~1万6000人が一斉避難その舞台裏~
京王線の線路近くの現場(写真提供:調布市)
不発弾(写真提供:調布市)
(と)
2012年04月07日
今日は何の日? ~4月7日~
67年前の今日、1945年4月7日は、アメリカ軍の爆撃機「B29」が、国領に墜落した日です・・・
1945年(昭和20年)には、太平洋戦争もいよいよ敗色が濃くなり、アメリカ軍の爆撃機「B29」が東京に頻繁に空襲に来るようになっていました。
前年の11月頃から「B29」による日本本土への空襲が始まり、最初のうちは、軍事施設への爆弾の投下が主なものでした。
調布周辺では、現在の武蔵野市にあった「中島飛行機武蔵製作所」が、米軍にとっての重要な攻撃目標でした。
ここでは、日本軍の飛行機のエンジンなどが製造されていたからです。
アメリカ軍はこの軍事攻撃目標に、250キロや1トンの爆弾を、高い高度(数千メートル)から投下していました。
一方、調布の飛行場からは、米軍の爆撃機を迎撃するために戦闘機が飛び立っていきました。
しかし、飛行性能や火力(銃器)の差が大きいために、戦闘機の機体ごと、相手に体当たりをするという攻撃方法もとられました。
そうしたなか、4月7日に、「中島飛行機」を爆撃しに来た「B29」の1機に、調布飛行場から飛び立った古波津少尉の戦闘機「飛燕」が体当たり攻撃を敢行し、「B29」を撃墜しました。
撃墜された「B29」は、空中でバラバラになり国領周辺に落ちてきました。
この機体の一部が、国領駅近くに落ち、そこに住んでいた河栗さんの一家8人が亡くなりました。
古波津少尉はパラシュートで脱出し、生還しました。
墜落した「B29」の乗員11名のうち、10名は亡くなり、1人が日本軍の捕虜になった後、アメリカに帰国しました。
2008年3月に発見され5月に処理された「不発弾」も、この時に「B29」の機体と共に落ちてきたものと推定されています。 (と)
参考文献:記録集 いまも心に -戦争体験を次の世代へ- 調布市発行
http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1236645519236/index.html
国領駅南側の桜の木

1945年(昭和20年)には、太平洋戦争もいよいよ敗色が濃くなり、アメリカ軍の爆撃機「B29」が東京に頻繁に空襲に来るようになっていました。
前年の11月頃から「B29」による日本本土への空襲が始まり、最初のうちは、軍事施設への爆弾の投下が主なものでした。
調布周辺では、現在の武蔵野市にあった「中島飛行機武蔵製作所」が、米軍にとっての重要な攻撃目標でした。
ここでは、日本軍の飛行機のエンジンなどが製造されていたからです。
アメリカ軍はこの軍事攻撃目標に、250キロや1トンの爆弾を、高い高度(数千メートル)から投下していました。
一方、調布の飛行場からは、米軍の爆撃機を迎撃するために戦闘機が飛び立っていきました。
しかし、飛行性能や火力(銃器)の差が大きいために、戦闘機の機体ごと、相手に体当たりをするという攻撃方法もとられました。
そうしたなか、4月7日に、「中島飛行機」を爆撃しに来た「B29」の1機に、調布飛行場から飛び立った古波津少尉の戦闘機「飛燕」が体当たり攻撃を敢行し、「B29」を撃墜しました。
撃墜された「B29」は、空中でバラバラになり国領周辺に落ちてきました。
この機体の一部が、国領駅近くに落ち、そこに住んでいた河栗さんの一家8人が亡くなりました。
古波津少尉はパラシュートで脱出し、生還しました。
墜落した「B29」の乗員11名のうち、10名は亡くなり、1人が日本軍の捕虜になった後、アメリカに帰国しました。
2008年3月に発見され5月に処理された「不発弾」も、この時に「B29」の機体と共に落ちてきたものと推定されています。 (と)
参考文献:記録集 いまも心に -戦争体験を次の世代へ- 調布市発行
http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1236645519236/index.html
国領駅南側の桜の木